戦後台湾自由主義の大家ともいえる著者の殷海光氏(台湾大学哲学教授)がまだ中国大陸に留まっていた国共内戦末期の1948年に中国上海で出版した「中国共産党之観察」の日本語版電子書籍(2023年7月出版)をお奨めいたします。私は上海在住の翻訳者です。殷海光氏が辿り着いた結論は、端的に言うと、反共なのでありますが、そこに至る観察、分析には、現代の私達にとっても、大いに参考となるものがあります。
戦後台湾自由主義の大家ともいえる著者の殷海光氏(台湾大学哲学教授)がまだ中国大陸に留まっていた国共内戦末期の1948年に中国上海で出版した「中国共産党之観察」の日本語版電子書籍(2023年7月出版)をお奨めいたします。私は上海在住の翻訳者です。殷海光氏が辿り着いた結論は、端的に言うと、反共なのでありますが、そこに至る観察、分析には、現代の私達にとっても、大いに参考となるものがあります。
非常期に
堅い信念
事の始まりは、2009年に上海当局が外国籍でも上海従業員社会保険に加入可能という通達を発したのを機に会社側と交渉すると、雇用契約の解除を強要されたことであった。二社目と三社目では加入できたものの、三社目は折悪く尖閣反日運動の時期に重なり、雇用のニーズが激減する中、やむを得ず、人材会社がせがむ実名と連絡先を伏せた上での履歴書のばら撒きに途中から応じると、忍び寄って来たのはブラック企業であり、私の就労許可申請を阻もうと企み、それを振り切って取得すると、試用期間中に雇用契約を解除されたのであった。早くから予約していた台湾旅行から上海に戻ると、とある日本語人材が私の同意なく個人情報を別の人材会社に流し、面接を強要されて、この四社目との面接に赴いたが、面接では社会保険への加入に同意したにも関わらず、実際には加入拒否であり、最終的に雇用契約を解除され、遂に労働仲裁を申し立て、2013年9月9日付けの仲裁判断で勝訴した。その後も不服申し立てを受けたが、棄却となって仲裁判断が確定した。しかし、強制執行段階で、被告企業の登記地を管轄する裁判所は執行せず、労働当局に問題を反映するようにとのことであったため、今度は被告企業の所在地を管轄する裁判所に再度強制執行を申請するとともに、労働当局へも通報すると、被告企業はそもそも違法に社会保険登記を行っていなかったことが判明。また、中国籍従業員は全員が派遣社員なのであった。その後、2014年になって漸く社会保険料の追納に成功した。ただ、医療保険のシステムは新たな企業に雇用されて保険料の納付を再開しないと、過去の追納情報を確認できないという仕様であったため、追納を完全に確認できたのは、後に自分で会社を設立して自分のために保険料の納付を開始してからのこととなった。
労働仲裁では社会保険料の追納と雇用契約の継続とを別の案件として分けて申し立てる必要があり、2013年9月9日付けのもう一つの仲裁判断で、雇用契約の継続と仲裁期間中の給与の支払いという請求が認められたが、労働裁判一審判決では判決日前に就労許可の期限が到来して延長されていないため、もはや契約を続行できない状態にあるとか、口頭弁論時に裁判官の誘導により、請求内容を雇用契約の継続から、違法解雇賠償金の支払いへと変更することに私が同意したという判断がなされた。二審では口頭弁論期日ギリギリまでしかビザが延長されなかったため、口頭弁論を終えると、当日そのまま上海総領事館に赴き、領事に面会して経緯を説明するとともに、日中社会保障協定の早期締結を要請。翌日に上海発、九龍紅磡行きの寝台列車に乗って香港に赴いて中国ビザを再申請。ビザの発行待ちの時間を利用して、一部の労働組合、政党、NGOを訪問して事情を説明した。訴訟請求では雇用契約の継続を求めていたため、上海に戻った後、就労ビザではなく、留学ビザに切り替えた。二審判決では、解雇の違法性が明確化されて、賠償金が支払われた。続く再審段階は、著名な労働法専門家のいる大学院法学研究科にて学んでいるときであった。入学して一年近くになった夏休み前の時期、同級生が何人も相次いで交通事故に遭ったり、私の乗っているバスが大学を出発して暫くして前側に停車中の自動車に不自然に追突するというような各種異常現象が続発。遂に2015年8月、私がバスに乗り込んでまだ着席していないときに、左側後方から加速してバスを追い抜き、バスの前側を急に右折して道路の右側のガソリンスタンドに割り込んだ自動車により、バスの運転手は急ブレーキを踏まされて、私はバスの最後部から前方まで数m吹っ飛ばされて骨折し、そのままバスで病院に運び込まれた。当日夜は、僅かでも動くと痛むので、眠りに就くのもなかなか大変であった。携帯電話は起動できない状態にあり、警察による現場検証、実況見分は行われなかったため、翌日、骨折している状態のまま、気合で最寄りの派出所まで2km余りの道程を一歩ずつ激痛に耐えながら訪れたが、受理されず、手術の翌日に、事故現場を管轄する交通センターとガソリンスタンドを訪問して事故の映像を確認。退院日に、病院からバス会社職員とともに交通警察に赴いて交通事故証明書が発行された。そして、長いリハビリ訓練を経て、翌年、体内に埋め込まれたプレートを取り除く二度目の手術を受けた。
殷海光先生編著《中國共產黨之觀察》(1948年出版)的日文版電子書已於2023年7月由本公司出版。還在進行校對中的2023年4月,我探訪了殷海光先生的家鄉湖北省黃岡市團風縣。 早上,從與黃岡以長江相隔的鄂州市內的住宿地點出發,搭乘公車越過鄂黃長江大橋,再換乘開往團風縣的公車,在前一天的上車地點的前方幾公里處下了車。從公車站附近的交叉路口沿著幹道往西北方向開始行走,路過了本地烈士長眠的英烈園。再往前走,越過高速公路,終於到達了殷家樓。在池塘邊的告示牌上記載「回龍山鎮江山村 宣」,從這點來看,殷家樓應該是屬於江山村的一個自然村。繞了一圈之後,沿著幹道繼續往前走,就來到了鴿子山村。據手頭的參考文獻,殷海光先生小時候到附近的小山上砍柴時,從懸崖上摔下來,留下了輕微的身體障礙(汪幸福《殷海光傳》湖北人民出版社、2000年、7頁),因此我多拍了山體斜坡處的照片。繞了幾圈後發現,在墓碑上所刻的姓氏好像大都是殷姓。殷家樓和回龍山鎮培育出了殷子衡、殷鑒、李四光、林彪、林育南、林育英等名士,實在是一個人才輩出的地方。殷海光先生很小就離開了殷家樓,搬到了相隔約15公里處的上巴河鎮,而後又到武漢讀初中,大概也有中日戰爭、國共內戰以及遷至台灣等時代背景的原因,離開家鄉之後,似乎很少有機會回家鄉的樣子。我這次來到殷海光先生的故里,也有各種感受。長途公車的話,會停靠在殷家樓的前面,但我還是選擇了原路返回。天氣是一直很好的,但是南面的天空中開始出現了烏雲。搭乘公車回到了黃岡城內,越過東方廣場,到了黃岡市博物館,入館時間已經截止。於是,再次搭乘公車越過鄂黃長江大橋,回到了鄂州。然後來到了有悠久歷史的文星塔。再北上到達長江江畔,看到了武昌門,這似乎是由來於三國時代東吳孫權建造的武昌城而後來建造的。白天的話,還可以看到長江裡面的礁石上建造的觀音閣,但是由於天色已晚,幾乎看不見。據參考文獻,殷海光先生的姐姐的家曾在鄂州的靠近長江的地方,而殷海光先生在那裡呆過一段時間(汪幸福《殷海光傳》湖北人民出版社、2000年、28-30頁),那麼,殷海光先生也很可能參觀過這些景點吧。
殷海光先生編著《中國共產黨之觀察》(1948年出版)的日文版電子書已於2023年7月由本公司出版。還在進行校對中的2023年4月,我探訪了殷海光先生的家鄉湖北省黃岡市團風縣。
前往湖北省的當天早上,首先從九江火車站斜對面的南湖公園東門出發。南門湖、甘棠湖,沿著湖畔設置了長長的施工用圍籬,到了著名旅遊景點煙水亭,終於眺望了整個湖泊。這座煙水亭,相傳是因《三國演義》而聞名的東吳大都督周瑜的點將台。再往長江邊走,就到了英租界舊址。這裡有以前的日本領事館、日本台灣銀行等建築。1927年,九江英租界被國民政府收回。